検事は、大きな罪を犯した者でも起訴しないことができ、些細な誤ちを犯した人でも起訴することができます。知らないふりをして覆い隠そうとした事件が明らかになり隠せなくなると、わざと公訴状を粗雑に書いて無罪判決を出させるか、小さな刑だけを受けさせることもできます。罪のない人を起訴して無罪判決が出ても、あるいは大きな罪を犯した人を起訴しなくても、何の責任も負いません。むしろ、重罪人を無罪にし、罪のない人を有罪にする「悪いこと」をうまくやれば、「能力ある検事」として認められます。このような人々は、検察から出て弁護士になっても「有能な弁護士」になり、莫大な弁護士料を受け取ります。正義を実現するという検察が、「悪い奴ほど成功する組織」の見本になってから長い時間が過ぎました。このような組織として代表的なのが、やくざの組織です。
時間が経てば自然にたまるのが、ほこり・垢・ゴミのように汚れたものです。このようなものが「積弊」です。検事が積極的に願って「悪い奴ほど成功する組織」を作ったとは思いたくありません。植民地時代や軍事独裁時代に「悪い権力」が仕向ける「悪いこと」をしているうちに「悪い習慣」に染まり、それを一度もきちんと清算できなかったため、「悪い組織の論理」に慣れてしまったのでしょう。
自分たちの私益を忠実に保障してくれる組織を、組織の構成員が自ら改革することは不可能です。「公正な社会」とは、“有銭無罪、無銭有罪”の慣行が消えた社会、法曹人が大きな罪を無罪にして大金を稼げない社会なのでしょうが、今の検察は、決してそのような社会を望まないでしょう。今回も彼らは、過去にいつもそうであったように、改革するふりだけしながら時間を稼ぐでしょう。じっと手をこまねいていたら、時間はいつも積弊の味方です。総選挙まで時間を稼ぎながら密かに積弊政治勢力を支援し、反転のきっかけを作ったなら、検察改革はもう終わりだということは、検察が一番よく知っているでしょう。
近づく総選挙が、自分たちの「不当な既得権」を維持できるか、あるいは一部でも手放さなければならないかを決定する「山場」ということは、検察もよく知っています。彼らにとっての「山場」が、市民にとっても「山場」です。